モスクワから成田に向かうアエロフロート、一皿ずつサーブされる昔ながらの機内サービスが終わり、デザートのアイスクリームを食べコーヒーを飲みながらMacBookを開いたところだ。
ビシュケクからモスクワ上空にやってくると、霧が出ているのか辺りが真っ白だった。ロシアの霧・・・ ユーリ・ノルシュティンさんの「霧の中のハリネズミ」という作品とあの作品中に流れる音楽をふと思い出したりした。
5月4日に日本を発ち、約2週間にわたりキルギスの首都ビシュケクに滞在した。キルギスはもちろん、中央アジアに来るのも今回が初めてだった。これまでも海外出張は何度かあったけれど、2週間の長きにわたっての出張は初めてで、それなりに長期にわたり海外に滞在するのは実に20年ぶりぐらいのことだった。
キルギス ・・・ 最初にこの国の名前を聞いた時、この国に対する前知識はほとんどなかった。旧名称のキルギスタンは、「何とかスタン」とひとくくりにして砂漠っぽい未開拓な地を思わせた。砂漠の地、遊牧民たちが暮らし、イスラム(この場合「回教」と言った方がイメージが湧く)の教えに従った人々が過ごし、もしかするとAK-47を抱えた兵士たちが跋扈している、そういう印象さえあった。人々は羊を食べ、私は羊が食べられないので食べられるものは何もないのではとも思った。
その後調べるにつれ不安は軽減していったのだが、実際には行ってみるまではわからない。言語はロシア語とキルギス語のようで英語はあまり通じなさそうだ。(実際来てみると、少なくともビシュケクにおいてはロシア語だ)
そうして2週間前、家を出て成田を発ちモスクワを経由しビシュケクのマナス国際空港に着くまで実に24時間を要した。遠い国だ。
この季節のビシュケクは心地よい気候で、気温は暑すぎず寒すぎず、湿度も低く快適だ。標高が800mと高く、そういう意味では長野あたりに似ているとも言える。ただ真夏は40度近くまで気温が上がり、真冬は氷点下10度以下になるという。我々が訪れた5月は丁度いい気候だったのだろう。
驚くのはその緑の豊富さで、町中が緑で覆われている。大通りには街路樹が並び、さらに幾つかの通りでは中央分離帯が広くとられ、木々が生い茂り人々が緑の中で寛ぐことができる。さらにこの季節は花が一斉に開花し、ポプラ並木からは白い綿毛がふわふわと舞っていた。
ビシュケクの近くに天山山脈がそびえ、市街地のすぐそばに雪を被った標高4000m級の山々の尾根が連なって見える。あちこちから天山山脈が見える。我々が借りたオフィスの窓からも天山山脈が綺麗に見え、私は毎朝その風景を眺めたものだった。
町を歩く人々の人種は様々で、最も目立つのは我々日本人とよく似たキルギス人と、西洋の顔立ちをしたロシア人の2つの人種だろう。キルギス人の多くはイスラム教徒だが、「マイルド・イスラム教」とでもいうのか、例えばお酒に関しては街のいたるところにお酒が売られているし、たいていのレストランには何の疑問もなくお酒のメニューがある。ビールなりウォッカなりコニャックなりを何の問題なく飲んでいる(むしろ量が多い)し、熱心に定期的にお祈りを捧げているわけでもない。豚肉を食べなかったりラマダンの時期はそれに従ったりするとはいうが、それ以外は別段イスラムを感じることはなかった。
ただ、夕暮れになり、モスクからコーランが響き渡るのを聞くと、ああこの国がイスラムの国なのだなぁと感じ入るものがある。意味はわからないが、低く流れるコーランを耳にすると遠く異国の地にやってきたんだなぁと思い、神妙な思いを抱いたりする。
ビシュケクの道路には日本車があふれているが過半数が日本車だ。この国は基本的に右側通行の左ハンドルなのだが、中には右ハンドルのままの車も結構ある。日本から輸出されて第二の人生を異国の地で謳歌しているのだろう。元の持ち主は自分のかつての愛車が日本を遠く離れたところで走り続けていることを知ると驚くことだろう。
古いラーダをはじめとするソ連時代からの古い車も見かけたが、今は少数のようだ。他にはメルセデスの人気も高いようで新旧さまざまなメルセデスが街中を走っていた。乗り合いバスとしてメルセデスの大きなバンが使われている。
メルセデスに関して言うと最新のメルセデスはほとんどなく型落ちが多い。中には右ハンドルでYANASEのシールが貼られた車もある。こういうのも日本から輸入しているのだろう。ちなみに公共交通機関はこのメルセデスのバンとトローリーバスのようだ。架線が敷設され、二本のアームで電力を供給し走る電動バスで環境にも良いだろう。そういえばかつて東京の街にもトローリーバスが走っていたと聞く。
日本車が目立つビシュケクの街だが、法令が改正され、今後右ハンドルの車は輸入できなくなるという。一足先にタクシーに施行されるそうである。そうなるとこの国の道路の風景もずいぶん違って見えることだろう。ひょっとすると中国や韓国、インドの車が変わって路上にあふれるかもしれない。この「やや古い日本車の風景」も見納めなのかもしれない。
ちなみに日本車をそのまま持ってきているので、ETCのデバイスもつけっぱなしだ。エンジンかけると「ETCカードが挿入されていません」とアナウンスされる車にも乗った。現地スタッフの車もこのアナウンスが流れ、意味を教えてあげたりした。
道路事情はかなり悪く、道はデコボコだ。どういうわけでここまでデコボコにできるのかが不思議なくらい、穴ぼこだらけだ。必要な箇所だけ工事してツギハギだらけというのもあるけど、それだけではなくただ単にデコボコなところも多い。そういうわけでスポーツカーは全く走っておらず、ランドクルーザーやレクサスのRV車が目立つ。メルセデスやポルシェやBMWのRVも幾分見かけた。確かにこの国ではRV車がベストなのだろう。RV車嫌いな私でさえ、この国で車を持つことになったら迷わずRV車にするだろう。
人々の収入は低いのにどうして車があふれているのか? 聞くところによると一家のうちでロシアに出稼ぎに行っている人が稼いだお金で車を買うケースが多いのだという。
ある人が言うにはこの国において車は移動手段ではなく、馬と同じく「動産」なのだという。買った車を大事に乗って高く売る。馬感覚、そういう価値観なんだそうな。
ちなみに運転マナーは我々日本人から見ると無秩序で、車線取りなんてなく、まあ実にゴッチャに走っているように見える。衝突するんじゃないかという勢いで突っ込んだり突っ込まれたりして、私などはとてもこの国では運転できないだろう。恐るべき車両感覚だ。私だったらこすったりぶつけたりしてることだろう。
滞在期間中、ドライバーを2名手配して移動していた。助手席に座って移動していたが、慣れてくると彼らなりの交通ルールがあることに気づく。
信号では赤に変わる前から確実に止まる。日本のように黄色だからといって突っ込むことはしない。
ただ、信号が青になる前には発進する。随分早くに。
とにかく車の鼻先を押し込めそうなスペースがあれば突っ込む。
クラクションの役割の一つで追加されているものは「今、オマエさんのすぐ横を俺が通ってるから気をつけろよ」という合図。
信号のない交差点では道路横断者がいると止まって渡らせる。
左車線から右折することだって別に厭わない。腕と度胸さえあれば。
まあそんなところだ。混沌の中にも秩序はあるのだ。イタリアよりは随分マシかもしれない。
食に関しては心配していたほど羊の料理はなかった。
この土地では羊は牛肉より高価で、よほどの理由がない限り(つまり売りとして羊を使わない限り)羊を使うことはないそうだ。羊頭狗肉というけど、羊の肉は高価で人気なのだろう。ただ単に肉というと高価な羊は使われないのだ。
ラーメンの元祖というラグマンや、ウズベクあたりからやってきたピラフ、蕎麦の実を湯掻いたものなどのこの地のものや、ロシアのボルシチやピロシキなどの料理もあって、特に困ることはなかった。
ビールが恐ろしく安く、ほとんど水代わりだった。私はほぼ毎日、ビールを飲んでいた。キルギスのビールもあるが、ロシアのバルチックのビールが大抵置いてあり、個人的にはバルチック7が一番気に入った。
日本大使館やJICA事務所がある側にモスクワというカフェがあり、ここがとても気に入った。1Fはスタバ風カフェがあり一つ一つ淹れてくれるエスプレッソが飲めたし、その奥のカフェテリアで食事をとることもできた。無料の無線LANももちろん用意されている。
2Fはビュッフェになっており、好きなものを何度でも取って食べることができる。わりと洗練された食事。1人399ソム、700円ちょっとというところか。この地ではかなり高い部類に入るだろう。店は混雑しておらず食事時でも空いている。利用客のほとんどが外国人なのかもしれない。
もしビシュケクでカフェや食事に困ったら、カフェモスクワをお勧めしたい。
水の話をすると、天山山脈のおかげで豊富な水源に恵まれているようだ。そういうわけで美味しいミネラルウォーターが採取されており、期間中、たくさんの現地のミネラルウォーターを飲んだ。どこに行ってもガス入りも手に入る。まろやかで実に美味しい。500mlのペットボトル入りで17?20ソムくらい、日本円にして30円ぐらいだろうか。ビシュケクは高度が800mとやや高いので、気をつけてキャップを開けないと炭酸が溢れやすいので注意が必要だ。
どの水も硬度はおそらく低め、とてもマイルドで口当たりのいい水だ。そばも取れるし水もいいから、ビシュケクで蕎麦屋を開いたらいいんじゃないかと思ったりした。
キルギス、古くはアレキサンダー大王やローマ帝国、匈奴やモンゴルや唐、オスマントルコ、そしてソビエト連邦と、多くの征服者達がこの街を通り抜けて行ったことだろう。
多彩な人種、食事、街並み・・・ いろいろなものからその名残を感じさせる。ここは文化の中心地ではなく、文化を生み出したところでもない。ただ文化の交差点/交易地として、周辺から伝播してきた文化をうまく取り入れ、オープンマインドに許容し、極めて実用的に生かしてきたのを感じる。シルクロードの街、そういう気質なようなものを総体として感じ取ることができた。
今回我々はJICAさんの案件化調査でこの国にやってきた。この国のある機関が日本政府に対してeラーニングシステムの支援の要請書を出し、それを受けて我々が活動しているというわけだ。国の機関の政府高官をはじめ、他の政府機関の副長官、大学の学長、業界団体の会長、元大臣・元将軍、JICAの方、日本大使館の大使、この2週間の間、実に多くの方々とお会いし、酒を飲み交わしたりした。そこで感じたことは、この国の成長、発展のためにeラーニングは一つの助けになるし、そこで我々の果たせることもあるということだ。
ソ連体制崩壊後、この国はインフラ整備といったハードウェアだけでなく法整備や人材育成といったソフトウェア面でもさまざまな課題を抱えている。国土は山岳地帯が多く各拠点は遠隔地になる。中央の決定や教育プログラムをすべからく国内に届けることは難しい。一方ネットワークは思った以上に発展している。まさにeラーニングにうってつけなのだ。
今回のプロジェクト、私がこんなことを言うのもなんだが、大きな利益を出そうとは思っていない。これまで我々の培ってきたノウハウをキルギスという国に投入することで、この国の発展に寄与できればいいと思っている。さらには中央アジア諸国に対しても同様の貢献ができないかと思っている。貨幣価値が随分違うので、日本で行っているようなビジネスモデルは構築できないだろう。ここはキルギスを始めとする中央アジア及びロシア語圏の地元経済や産業発展のために貢献できることを考えたい。
今回のプロジェクトには現地採用のスタッフもいる。日本語の通訳と英語の通訳、IT系の大学教授とその弟子、事務の人、この2週間は現地スタッフと共に働いた。皆、非常に熱心で、前向きに仕事に取り組んでくれた。はじめはお互い硬かったが、次第に緊張もほぐれ、1つのチームとしてうまくまとまったように思う。私は日本語と英語しか喋れずロシア語はからっきしわからないが、それでもいろいろと英語で話し込んだりして、こちらの考えや方向性を共有できたように思う。
もちろん日本からのチームも素晴らしい仕事をした。日本の仕事も行いつつ現地で対応する様は非常に頼もしかった。今回はこのチームの頑張りで当初の目標をクリアできたように思うし、私なりに、この国や中央アジアでのビジネス展開のヒントのようなものが見えてきたように思う。チームの一人一人に大いに感謝する次第だ。
現地スタッフと別れるのがちょっと辛かった。いろいろと心のこもったプレゼントも貰い、遠くビシュケクの地に友人が持てたことを大変嬉しく思う。
もう一つ、この国を訪れて感じた大きなことに触れたい。それはロシア=旧ソビエト連邦の影響力だ。
キルギスの公用語はロシア語とキルギス語だ。どちらもキリル文字で表記するのだけれど、ビシュケクでは主にロシア語が使われている。
言葉だけでなく街のいたるところにソ連の影響を感じる。街の建物にも旧ソ連時代のものが残っていたり、そもそもビシュケクの街の区画整理も旧ソ連時代に行われたものだ。街はロシア語で溢れ、ピロシキやボルシチなどのロシア料理がごく当たり前のようにあるし人々はウォッカを飲む。この街は旧ソ連が作ったのだ。
ソ連崩壊前、ソ連はその膨大な領地を実に見事に統治したのだろう。例えば中央アジアでの発電の話、水力発電所そのものはキルギスにあるのだが、発電所のコントロールはウズベキスタンにあるという。つまり、お互いの国が協力し合わないとうまく機能しない。こういう感じでお互いが独立せず依存するようにうまく統治されている。法整備や教育や科学技術も進み、崩壊前の方がむしろ進んでいたところもあるようだ。
我々、西側の人間にとって(まあ日本はアメリカの属州なので)、ソ連崩壊前の共産主義体制は悪そのものだった。そこでは人々は制圧され、KGBやシベリア送りなどの恐怖政治の下、自由に行動できなかった、そういうふうに教えられてきた。だが、見聞きした範囲では、少なくともソ連配下のキルギスにとってはそうでもなかったようで、ソ連時代を懐かしむ人までいる。我々が行った税務局にはスターリンの写真があったし、大学には設立を支援したロシアのエリツィン元大統領やプーチン大統領の写真や署名入りの書類も展示されていた。
思うに、旧ソビエト統治の下では、物事が規律的に運用され教育文化レベルも高く、それはそれで素晴らしい生活が送れたんじゃないだろうか。そこで過ごす人々は我々西側諸国の人が人生において幸福を感じるのと同じように、ややフォーマットは違うものの、幸せな日々を送っていたのだろう。それを我々西側諸国の人々は捻じ曲げて解釈していたのではないかと感じたりした。どちらが良い、悪いではなく、こういう運用も理にかなっていたのだろうとは思う。
そんなソ連も崩壊し、名目としてはロシア=旧ソ連の影響から脱したキルギスだが、それでもロシアへの依存、帰依はやはり強く、この国の人たちはアイデンティティとしてロシアを常に持っているように思う。そう、ここキルギスはロシアの小国なのだ。今もなお。
最後に、個人的な話になるが、5月8日の母の日、深夜遅くに姉からメールが届いた。
「ふと、お母様のピロシキの味を思い出した」
という趣旨だった。
そう、母はよくピロシキを作ってくれたものだった。我が家のピロシキは小麦粉を練ったのを伸ばして、そこにひき肉・玉ねぎ・人参などで作った具材を入れて巻いたのを揚げていたように思う。
モスクワやキルギスで幾つかピロシキを食べた。母が作ってくれたピロシキとは随分違うけど、ルーツは同じものだなぁと改めて感じた。
それらピロシキを食べながら、日本から5,000キロ以上離れた場所で十年以上前に他界した母のことを懐かしく思ったりした。
人は旅に出ると普段考えないことを考えたり気づいたりするものだ。
普段とは違う世界で生活する・・・外界の変化だけではなく自分の内部を振り返るのにも旅は有効なのだろう。
さてあと5時間で成田に着く。その前に一眠りすることにしよう。