今日は2023年12月20日です。
12月20日は、弊社デジタル・ナレッジの創立記念日で、1995年12月20日に、この会社、株式会社デジタル・ナレッジの前身であるテレコム学習ネットワーク有限会社が産声を上げたのでした。
指折り数えると、今年で28年になります。こうして長く事業を展開できているのは、ひとえに日頃からご愛顧いただいている皆様のおかげです。改めて感謝申し上げます。
設立記念日の今日、昼前から設立会がハイフレックスで開催されました。
冒頭、創業者「はが」の創業当時のエピソードの話があり、創業当時の逸話が話されました。
その後、出社しているスタッフ全員に叙々苑さんの焼肉弁当やスパークリングワインが振る舞われました。
毎年会社のロゴが入った記念品が配られるのですが、今年は28周年記念のデザインが入ったスープジャーでした。
その設立会も先ほど終わったばかりですが、今日1日は創業当時のことを思い出し、ちょっと遠い目になっております。創業当時のオフィスの様子は10年前のブログで紹介していたり、8年前の創業20周年記念のパーティの様子も8年前のブログで紹介しておりますが、私がこの会社に働き出したのは、創業から約2ヶ月後の1996年の2月からで、当時は学生アルバイトとして入社したのでした。
そういうわけで私自身が創業に携わったわけではないのですが、創業前夜、創業の経緯などを創業者の はが から聞いており、今日の設立会でも当時のことが話されていたので、今回のブログでは特別編として、弊社の設立前夜の話を、伝聞として、紹介いたします。
目次
1995年・・・マルチメディア、ネットを備えたコンピュータが家庭に
ある一定の年齢以上の方は1995年というとピンとくるかもしれません。この年はマイクロソフトがWindows 95をリリースした年でした。
この当時、マイクロソフトで言うと、MS-DOSというテキストのコマンドベースで操作するOSや、Windows 3.1という今のウィンドウズの系譜の先駆けのシリーズの完成版などがありました。MS-DOSは完全にキーボードで単語を入力して実行するコマンドで操作するOSでしたが、Windows 3.1であっても操作性はGUI(グラフィカル・ユーザ・インターフェイス:マウスを使ってカーソルを操作して指示する)主流というより、コマンドをGUIで使いやすく偽装しているという感じでした。
ハードウェアで言うとまだ日本市場ではNECのPC-9801シリーズが強く、その牙城をDOS/Vと呼ばれるアメリカを中心に様々なメーカーから発売されていたPC/AT互換機が切り崩しを図っていた時代でした。
1984年にリリースされたMacintoshはGUIという観点では一歩先んじており、この時代ではすでに現在のマウスを主体とした使い方が実現されていました。ただ、値段が高かったり、医者やデザイナーなどの特殊な職業の人や、(私を含む)マニアな人が愛用していた他には、今ほど市民権を得ていたわけではなく、それほど一般に使われていたわけではありませんでした。
この当時のパソコンは、WindowsだろうがMacだろうが、まだ一般家庭に浸透すると言うものではなく、特別なオフィス環境やコアなファン層、マニアの間でしか使われていなかったのです。
それを一気に変えたのがWindows 95だったのです。マウスだけで操作できるGUIの簡単さ、インターネット対応、プラグアンドプレイと呼ばれる周辺機器の接続時の設定を簡略化した仕組みなど、これまで難しいとされていたパソコンやネット接続を、誰もが使いやすく利用できるようになったOSでした。
アメリカでは1995年8月25日、そして日本でも1995年11月23日に発売されました。
私ごとですが、アメリカでリリースされた時、たまたまアメリカにいて現地で販売されたのを見たり、日本での発売時には友人と夜中に秋葉原に見に行きました。当時から私はMacユーザだったので購入することはなかったのですが、あの世界の熱狂、これからパソコンが家庭に入って、音声や映像によるマルチメディアやインターネットが爆発的に広まるという熱のようなものの真っ只中にいて、時代が進むことをひしひしと感じておりました。
当時のインターネット状況
1995年当時、インターネットがどういう存在だったのかもお話ししておきましょう。まだ一般の人がインターネットにアクセスする環境にありませんでした。
インターネットの成立の歴史は置いておき日本での普及に絞っていうと、1988年の大学を中心としたWIDEプロジェクトが一つの起点で、そこから日本初のプロバイダーであるIIJさんが発足したのが1992年、翌年1993年に日本にてインターネットの商用サービスがスタートしました。それ以前はPC-VANやNifty-Serveといったパソコン通信の世界がありましたが、パソコン通信はマニアな世界で、一般の人が多く使うようなものではありませんでした。
どのようにインターネットに接続するか・・・ 当時はUNIXやMacintosh、MS-DOS、Windows 3.1などでインターネット接続ができましたが、家庭からの場合、電話回線を利用して接続するPPP接続、そしてインターネットに接続するためのプロトコルTCP/IPの環境をそれぞれ構築する必要があり、いろいろなドライバーをパソコンにインストールして設定したりと、かなり腕に覚えがある人ではないと設定できないような代物でした。
接続回線は一般的には既設の電話回線を使ってモデムと呼ばれる装置でネットに接続しており、速度は56kbpsぐらいが最高速。インターネット用のISDNという回線を使うと安定的に64kbpsもしくは128kbpsのスピードを出すことができましたが、費用は結構かかりました。(今考えるとなんと低速なことか!)
私は中学の頃からパソコン通信は行なってきており、インターネットに触れたのは1993年の大学の入学からで、そういう意味ではインターネットの黎明期からのユーザです。また学生時代はImpressさんのInternet Watchという雑誌に記事を書くアルバイトをしており、まだまだ利用者が少ないインターネットユーザのためのサイトの紹介などをしたりもしていました。他にもHTMLが書ける人が少ない中、友人とチームを組んで各国の在日大使館のホームページを作ったりと、黎明期をそれなりに楽しんだ世代でした。
家庭に入るパソコンで何をやろう・・・教育だ!
そんな1995年を特別な思いで過ごした人たちがいました。
当時、富士電機さんで勤務していた3名:はが、近藤、猪股の3名です。この20代後半から30代前半の若者3人は富士電機の同僚・先輩後輩で、このWindows 95のニュースを知り、これからパソコンが家庭に普及する胎動を感じ取ってました。
富士電機では、彼らはダムの制御システムや空港の給油システムの制御など、大型の汎用機の開発を行なっていました。自分たちが作ったものが基盤となり社会を支えているやりがいはあったものの、自分たちが作ったものを直接利用者が使って喜んでもらっているシーンを見ることはなく、自分たちの持てる力を別の領域で活用できないか?と考えていたようです。
そんな中、Windows 95がリリースされ、それが世の中を変える、家庭にネットワークに接続されたパソコンが普及する。そんなパソコンを活用しない手はない! と信じた彼らはその対象を教育に定めました。家庭にパソコンが行き渡り、そんなパソコンを子供達が使って学習を行う。地域格差がなくなり、多くの子どもたちが質の高い教育を受けることができる・・・ そんな世界が、パソコンとインターネットを活用し、自分たちの技術力を投入するとそれが実現できるんじゃないだろうか? そう夢想したのです。
そこで3人は休日返上、夜中の時間も使って教育システムの開発を行います。1995年以前よりGUIで操作性の高かったMacintoshでシステムを開発しました。こうして彼らの理念を具現化した教材やマルチメディアの読み物などを搭載したデモ版が完成したのです。
販売・・・苦戦
実際にモノが出来上がったからといって利用してもらえるわけではなく、プロモーションや営業活動を行わなければなりません。
エンジニア出身の3名は、さて、どうしようと頭を悩ませた結果、中学生のお子さんのいらっしゃる家庭にダイレクトメールを送って集客しようと思い至りました。まだ個人情報保護の概念がない時代、横浜市役所に行き、住民台帳を見せてもらい、条件に合致する人のリストを作成したのです。今はこれは言語道断な行為ですが、当時はよく行われていた合法的な手法でした。リストを千件、手で紙に書き取って(とても大変だったそうです)、千件の家庭にダイレクトメールを送りました。
結果、そこから反応があったのは3件だったそうです。文字通り「せんみつ」(千三つ・・千件当たって3件ヒットするというマーケティングの言葉)だったのです。そのうち実際の訪問とデモができたのは1件でした。
その1件のお客様を訪問し、パソコンを持ち込んでデモをしたそうです。お子さんやお母さんはそのデモを見て目を輝かせて、「これはすごい! こういう時代が来るんだ!」と感動の言葉をいただいたそうです。だが、だからと言って「これください」という状態には至らず、だったようです。
ちなみに聞いた話によると、マンションの上の方の階だったようですが、エレベータがない建物で、パソコンやモニタ(当時は液晶ではなくブラウン管の重たい装置)を担いで階段を何段も登ったらしく、大変だったそうです。もう一つついでに、メンバーの1人はトマトが大の苦手なのですが、この訪問先のご家庭でご厚意でサンドウィッチを出していただいたそうなのですが、これにトマトが入っており、目を白黒させて流し込んだそうです。いやはや。
さて、頑張って開発をしてデモ版を作成し、1000件のリストを集めてDMを送って反応があった3件にコンタクトをしてデモに漕ぎ着けたのが1件、それも販売には至らなかった・・・ ここで3名はガッカリするわけです。
自分たちで直接販売するのは無理がある。成果が全く出なかった。
しかも得意な開発でさえ、デモだけならまだしも、実際のサービスとして利用者が幅広く学習できる教材のバリエーションをそろえるには、相当な時間とリソース必要になるだろう。
そんな理由から一度は断念しようと諦めかけたのですが、自分たちだけでやるんじゃなくて、世の中の教育企業さんに提案をして一緒に進めるのはどうか? と思い至ったのです。
教育企業さんへ働きかけ
3人の中でリーダ格である「はが」は、手紙を7通書いたそうです。思いつく様々な教育企業さんの社長さん宛に、これまで3人が行なってきたこと、実現しようとする世界観、未来について、自分たちの思いを手紙に書いて投函しました。
投函後しばらく経ったある日、当時、富士電機の社員だった「はが」は仕事を終えて家に帰ると、留守番電話の新着メッセージを示すランプがチカチカと点滅していることに気づきました。急いで留守電のメッセージを聞くと、自分が手紙を出した教育企業さんの社長さんたち数名から、直接電話をいただき、留守電にメッセージを残しておいていただいたそうです。
日本を代表する大手の教育企業さんの社長さんたちがわざわざご自身で自分の留守電にメッセージを残してくれた! と感動し、コンタクトいただいた社長さんに会いに行ったそうです。
若者、バカ者、よそ者・・・ イノベーションを起こすにはこの3つの条件が必要だ、と言われます。この20代〜30そこそこの3人は、教育業界からすると、まさにこの3条件に合致していた、と思います。無鉄砲に理念を掲げ、空気を読まずに、ただただそれをプリミティヴに追い求める。その姿勢に名だたる教育企業の社長さんも心動かされたのではないか、と思います。
プレゼン、そして・・・
社長さんからお電話をいただいた会社さんの一社、明光義塾を運営する明光ネットワークジャパンさんの渡邉社長を「はが」は有給休暇をとって訪問しました。
通された会議室には明光ネットワークジャパンさんの創業者でもある渡邉社長を筆頭に、明光さんの役員や関係者が総勢20名ほどいらっしゃって圧倒されたそうです。「はが」がこれまでやってきたこと、今後実現する世界観をプレゼンすると、その中の担当者さんの1人が「それは自分たちも考えているプランだ」とおっしゃられたそうで、「はが」はああ、ここでも無理かなぁと思ったものの、これまでの3人が実現してきたこと、その経験を踏まえて、先に起こりうること、こうした方がいいというポイントなどを率直に語ったそうです。
インターネットやパソコンが家庭に広まり今後学習のメインストリームになるという確固たる信念、それを自分たちがなんとか実現しようという意志がそうさせたのでしょう。話が一通り終わると、渡邉社長が他の人を人払いされました。会議室には渡邉社長と「はが」の2人のみ。そこで渡邉社長から、自分たちは遅かれ早かれ、インターネットとパソコンを活用したサービスを開発するが、やるのなら、君と一緒に進めたほうが良い、というお話をいただいたそうです。
後日、「はが」が語るには、その時、自分にはこれをなんとしても作って世に広めたい、それが自分の使命だという確固たる意志のようなものがあった。自分たちの技術力や経験だけでなく、この意志が評価され、一緒にやるにふさわしいと判断されたのだろう、と。
こうして明光ネットワークジャパンさんと取引を開始することになり、はがと近藤の2人は富士電機を退職して1995年12月20日に弊社の前身である「テレコム学習ネットワーク有限会社」を設立したのでした。3人の中のもう1人の猪股は一年余り後に富士電機を退職し、1997年4月に合流しました。
当時、明光義塾さん向けに開発したM-STATIONについては別のブログに詳しく記載されてますので、ご興味ある方は参照ください。
ヘッドライト・テールライト、旅はまだ終わらない
1995年12月20日、青山の地に産声を上げた弊社、あの日から現在に至るまで28年の歳月を駆け抜けてきました。我々の歩みは日本のeラーニングの揺籃・黎明から、現在に至る発展そのものだったと改めて感じ入るものがあります。私自身は1996年2月ごろから加わってますが、当時の規模では考えられない人数規模になり、できることも飛躍的に広がり、多くの価値を提供し、お客様の教育の実現に寄与できる体制が年を経るごとに強化されているのを感じております。
29年目のデジタル・ナレッジ、当時、明光ネットワークジャパンさんの会議室で「はが」が示した意志を受け継ぎ、スタッフそれぞれが意志を持ち、お客様の「学びの架け橋」になれるよう、これからも精進してまいります。どうぞ引き続きよろしくお願い致します。
おまけ
もうクリスマスまであと数日となりました。そこで今日のおまけの曲は”White Christmas”です。
どうぞ皆様、素敵なクリスマスをお過ごしください。