東京は雨がほとんど降らない日が続き、乾燥がすごいですね。風邪をひきやすい状況です。みなさん、一層のご注意を。
実は昔は某教育企業で塾講師をしていた研究員・岡田です。先日、「いくつの人生、やってんすか?」 とアラサーの方に言われました。このところ、人生展開がスピーディーです。
さて、今日は『本当にあった怖い話』 をしたいと思います。
◆本当にあった怖い話◆
みなさん、これが読めますか?
もし、この一覧を上司から「こちらのノートに写して覚えておいて」と言われたら、どのような反応をされますか?
お気づきのように、これは「文字化け」しているので、このままでは理解不能です。
正しくは、このような表となります。
実際にあった話です。
ある中学3年生の女子に、英単語を覚えてもらおうと、先生が単語リスト(スペル・発音記号・品詞・日本語の意味)を渡し、『何度もノートに書いて覚えてね』 と課題を出しました。
2時間後、その先生が自習室の彼女の様子を見に行ったら・・・延々と意味不明な記号を写している状態を発見しました。
何度も、何度も、その先生は女子生徒に謝っていたのですが、その生徒は
『え?でも、勉強になったから…』
とまるで怒っていない様子でした。
ね?怖いでしょう?
先生もプリントアウトした時点で気づけよ、ということは置いといて・・・
既に中学3年生。発音記号も習っている。その子が、(1)発音記号の文字化けに気付かない 。
何よりも、「よく分からない記号だけど・・・ 何のために写しているんだろう?」と、(2)自分の学習の目的を考えていない ということが恐ろしいです。
教師やコーチといった存在が必要な理由の一つとして、学習者が学習内容により集中することができるように、その他の学習方略・戦略などを構築する、ということがあります。つまり、「良い教師」というのは学習者が信頼して学習の方向性決定などの一部の判断を「任せる」ことができる 人のことを言うのでしょう。
そういう意味では、先ほどの怖い話の女子生徒も先生を信頼しきっていました。ただ、ここに問題の根っこがあります。
◆学習者が陥る「判断停止」◆
「信頼」は同時に学習者の「判断停止」を促す場合があります。
先生が言っているから、間違いないだろう
教科書に書いてあるから、きっとそうなんだろう
まあ、イチイチ反論されていると授業にならないので、多少はこういう状態も必要なのですが・・・
ただ、この姿勢は行き過ぎると困ったことになります。例えば、英単語を「何度もノートに書いて覚えなさい」と言った場合に、「覚える」というゴールではなく「書く」という行為に注目 して、「何度書いたか」が学習進捗の自己評価にすり替わる ことがあります。もっと困ったことは、教師が何故かそういうすり替えを行う場合もあるということです。
確かに、「理解」や「記憶」はチェックしにくいものですが、「行動」はチェックしやすいですから。
以前、講演を聴いた東京大学の吉見俊哉教授が行っていたという『アタック・ミー』という授業はまさにこの判断停止を徹底的に払拭する目的をもっていたと思います。『アタック・ミー』では、受講者が吉見先生の著作を読んで、徹底的に先生の著作・論に対して批判を行う、というもの。質問や要約はダメ。あくまでも自らの判断で批判を行い、それに対して吉見先生がまた議論をしていきます。
このような活動の中で学習者にとって得られることはたくさんあります。もちろん、著作を熟読することで得られる知識・情報というものはあるでしょう。それだけではなく、「真理というものについての考え」を改めることもあるでしょう。つまり、真理というのは集団的な思考や相互検証によって構築されていく、という観点。有名教授でも最初から出来上がった存在ではなく「小さな思索の積み重ねで形成されている」という実感をもったり、自分に「判断が委ねられていること」の実感というのも。それらは考えながら学ぶ姿勢につながります。
しかし、先ほどの怖い話のような場合、本来であれば学習者自身が自らを評価しながら(つまり「自分は本当に理解できているだろうか」という省察をしながら)学習を遂行する場面で、そのような評価のない単純な作業に置き換わっていることが起こっています。つまり、「理解」よりも「行動」の方がチェックしやすく、それ故に責任も取りやすい ということです。例えば、覚えていなくても「でも先生!僕は100回も単語を書いたんですよ!言われた通りに!」と言われたら、努力不足という評価はできません。(個人的には、学習者のそんな状態の方が危機的な感じがしますが。。。) 責任の向かう先が「理解」という個人の内的なものではなく、「行動」という外的なものになっているというところが構造的な問題 なのだと思います。
◆ますます求められていく「資質・能力」◆
教育というのは、学習者が「学びたいことを学ぶ」という次元とは違って、「学ぶということはどういうことか?」も学習者に示していき、適宜自らの学習を調整できるように判断ができるように促していくことが含まれると私は考えています。学習者自身が自己責任で自らの学習の在り方を判断できるようになって、「学びたいことを学ぶ」ということがはじめて実りあるものになるのではないでしょうか。
ここで、注目したいのは、文部科学省も新しい指針として打ち出している「資質・能力」を向上させる教育です。
国立教育政策研究所(編)『資質・能力 理論編』(東洋館出版社)では、知識だけではなく「能力・資質」がどのようなものなのかを詳細に解説しています。詳細は読んで確認していただくとして、まとめとしてpp.67―68に記載されている内容をかいつまんで転載します。
学び始めには学習に使う手段、学び終わりでは学習内容も含みこんだ次のための学習手段。したがって方法知でありつつ、内容知も含みこんだもの
知識の質向上のために必要不可欠な手段かつ目標。
「資質」を中心に人格(価値・態度等)に関わるもの
ややこしい表現ですねw
でも、例えばスポーツやピアノなどのレッスンになぞらえるとわかりやすいかもしれません。
ピアノの場合、ピアニストになる資質として例えば「真面目に練習すること」「指導者の指導に素直に従うこと」や「音感」「リズム感」などの項目が挙げられるかもしれません。これは、バイエルなどの教則本にある楽譜という情報だけで充足されるものではありません。もちろん、それぞれの曲を練習し、指が思い通り動くことが求められ、その中で「能力」として「音感」「リズム感」が向上していくので、新たに少し難しい曲の練習ができるレベルになっていく、というものです。ここで注意したいのは、具体的な曲というものなしに「資質・能力」だけを育成することはできない、ということです。
実は、私の父親はオルガニストでした。学生時代、アルバイトでピアノのレッスンを頼まれた時に、その保護者の方に
『全くピアノは初めてです。でも、ベートーヴェンの『熱情』が弾けるようになりたいので、『熱情』だけレッスンをお願いします。』
と言われたことがあり、断った、ということを話してくれたことがあります。
目標(『熱情』を弾くこと)があることは悪いことではありません。しかし、その曲が弾けるくらいの「能力」を身につけること、その「能力」でもって『熱情』を自分が弾きたいように弾くことこそが本来の目的でなければ、いびつなレッスンにならざるをえません。
そして、逆に次のことにも注意しなければならないのです。どんな曲でもやみくもに弾いたという経験値さえ積み上げれば、結果として高い能力が身につくわけではない、ということです。必要条件と十分条件を履き違えてはいけません。
勉強や仕事になるとこのような履き違えがよく見られるようになります。
例えば身体の大きさや能力を向上させるのに、がむしゃらに食事して運動してもその通りにはなるとは限りません。
同様に、知識を詰め込んだところで、それを消化し、自らの(適切な)栄養分に変えないといけません。学習も学習内容を既知の知識と関連付けて理解したり、それまで素朴に有していた信念や思い込みを改訂していったりしながら、理解・認識の「枠」を脱構築していくことが求められています。
本来、良い教師や良い上司・先輩というものは、学習者がどのような認識枠を持つようになったか、行動の動機をどのようなことに求めるようになったかなど、発達段階や個性を念頭に置きながら評価し、それに応じた対応を学習者にしているのだと思います。同じ情報や知識を与えても、同じように認識も理解もしないかもしれません。なぜなら、学習者たちはそれぞれ有している既存知識も価値観も認識の枠も違うのですから。(つまり、「資質・能力」が異なる。)
◆ウサギ―アヒルのだまし絵から考える「認識の枠」◆
ちょっと「認識の枠」という言葉が分かりにくいかもしれないので、少し解説します。
認知心理学や哲学などに親しみがないと、ちょっと考えにくいことかもしれませんが、私たちは物事を見たり聞いたりしている時、個々人の背景知識や精神状況、学習の履歴などによって、モノの見え方が違います。「いや、コップはコップ、それ以外に見えないだろう?」という反論があるかもしれません。でも、意外とそうではないのです。
みなさんは、だまし絵で「ウサギにもアヒルにも見える図」というのをご存知でしょうか?似たようなもので、若い女性にも老婆にも見える絵というのもあります。学校の美術の教科書などにも紹介されているので、どこかで見たことはあるかと思います。
あの絵を見て、「ウサギにしか見えない人」というのがいます。逆に「アヒルにしか見えない人」というのもいます。仮想的な話であれば、「ウサギを見たことないがアヒルはよく見ている人」などはそうなりそうです。でも、文化的にウサギもアヒルもよく知っている人でもそうなのです。実は、私は違う絵ですが、周囲の人が言っているようには全く見えず、ずっと悶々とした・・・という経験があります。でも、ある時にハッと気づいて、どちらにも見えるようになった時、世界が広がったように見えました。つまり、認識の「枠」が広がったり、柔軟に枠を入れ替えることができるようになったのです。
ちょっと違いますが、視点(Point of view)によってもモノの見え方は異なります。「教師の立場からすると…」「弁護士としての判断だと…」など、人はその立場や経験や個人的な趣味や倫理観などで、同じ状況にあっても様々な解釈やモノの見方をします。
◆OJT(On the Job Training)が重視される理由とは?◆
社会人教育でも、OJTが重視されるのはまさに「座学的な知識では得られない能力・資質を養うことが重要だから」だと思います。
ところが、OJTについても誤解が散見されます。つまり、具体的な現場で求められる知識を得ることだと理解されているのです。
この違いを説明するのに、敢えて次の表現を使いたいと思います。「演繹的教育」と「帰納的教育」です。
演繹的教育というのは、ある正しい知識(数学的には公理・定理)から正しい適用を行う教育です。この場合、適切な状況で適切な知識を再現することが求められます。教師は正しい知識を教えます。テストや業務で、その知識が適用できる状況だと判断したら、その知識を再現して適切な行動を行います。もし、それが再現できない場合、教師が生徒に「これ、教えたよな?なんでできないんだ?」と叱るのは、この教育観が無意識に前提されているからではないでしょうか。基本は教えるけれども、応用するのは生徒側の問題だと。
逆に、帰納的教育というのは、様々な体験の中から合理的な知識を構築するように促します。ここでは科学的な帰納法ほど厳密ではありませんが、自分の経験から「何が知識として構築できるのか」を学習者に考えさせ、それを教師側が吸い上げて認めてあげる、というスタンスです。知識の構築方法や、認識の「枠」に関わる部分を教師と生徒が一緒になって構築していくことが企図されています。
OJTで求められているのは、その業界や職責に応じた認識・判断ができる力をオーセンティックな経験を通じて身につけることです。つまり、帰納的教育が重視されていると思います。
単純に「こんな時はどうする?」というシミュレーションでクリアできるのであれば、映像授業がクイズでもある程度のことはできます。むしろ、「こんな時」というのが自然に発生しずらくOJTが高頻度で行えない状況(例えば災害とかクレーム体験)などは、VRなどの映像を使って事前に何パターンもトレーニングしておくことでクリアされます。
先ほど、「具体的な現場でも求められる知識を得ること」(これは先輩の体験をもとにしているが、学習者にとっては「演繹的教育」)と表現した事柄は、このようなVRシミュレーションでかなりの程度クリアできるようになってきています。
問題は、その先です。
世の中は想定されたシミュレーション以上に複雑で見通しが利きません。不測の事態が起きた時に判断する主体が自分の責任のもと、判断し、行動することが重要です。学習者が自分で判断する認識の枠をもつこと、それを信頼できると周囲が認めること、が大事です。そのように自らの判断の拠り所を内的に持った人間が、熟慮の末に失敗した場合、おそらくは失敗した本人が自ら責任を感じます。
つまり、教育の目標の一つには、ある文化的・社会的集団の一員としてその集団の他の人たちからも納得されるような認識・判断・行動ができるように育てる、という事柄があります。これは「マニュアル人間」とは対極です。マニュアル人間というのは、「指示通りにしか行動できない」ということであって、明文化されていなくともその時々で合意形成がなされるような判断を自分で行う人間は(結果として周囲と同じ結論に達したとして)マニュアル人間ではありません。
さて、ここまでは単なる問題提起ですし、私自身が画期的な解決法を持っているわけではありません。
しかし、eラーニングを推進し、eラーニングの新しい可能性を拡張しようとする立場として、常に「ラーニングとは何か?」ということを考え続けなければならないという自戒を込めて考えてみました。まだまだeラーニングも、そして社会人や学校教育も課題は山積しています。しかし、「考え続ける人材を育てる」という目標は揺るがないと思います。
責任感をもって仕事をする、ということの基礎は、「学びに対しても責任をもてるようになる」ということなのではないかと思います。